セントヒル荘
セントヒル荘の小史
DianeticsとScientologyの創設者L .ロンハバードの家として世界的に有名なセントヒル荘はまた、サセックスにある歴史的に意義深い建物のひとつです。 セントヒルは1567年、クックフィールドにいたステファン・ボードの遺言のなかで、「セントヒル荘のトーマス・ニコラス」が住んでいる4.8ヘクタールの土地と小屋という記録を最初としています。 「Saynt」の古い英語翻訳は「singed(焦げた)」あるいは「burnt(焼けた)」で、焼いて土地をきれいにする実践から来ています。
それからまた150年して、セントヒルは再び公文書に(ラテン語の形で表記されて)出てきます。 1715年の始め、スコットランドのアルドミランにいたジョン・クロフォードが、その土地を手にしたと記録されています。 現在のセントヒル荘が位置する場所に、クロフォードは邸宅を築き、その建設が1733年に完成しました。 今日、クロフォードのジャコビアン時代スタイルの水色の家は、著名な風景画家、ジェームズ・ランバード・オブ・ルイスによって描かれ、大英博物館のバレルの原稿収集に属しています。
1792年には、彼の長男とその相続人であったギブス・クロフォードがジャコビアン・スタイルの邸宅を壊し、「より高級な邸宅」に建て替えたのです。 地元の石工ヘンリー・ポコックが雇われ、現在存在する郊外の大邸宅建設が始められました。 後期ジョージ王朝風スタイルの適例である建物は、地元で採掘されたサセックス砂岩で建てられました。 この建物の建築家は完全には確認することはできませんでしが、残っている建設記録は、この邸宅は、合衆国議会議事堂とホワイトハウスのデザインで有名なベンジャミン・ヘンリー・ラトローブ氏の仕事の一部だと強く示唆していました。
クロフォード家の歴史によると、セントヒルはギブスから、彼の長男であるチャールズへと譲り渡され、1814年にはチャールズの一人息子ロバートへと譲り渡されました。 セントヒル荘に住んだクロフォード家の最後の人、ロバートは治安判事を務め、イースト・グリンステッド最初の鉄道を敷くことに尽力しました。
19世紀後半までには、セントヒルはエドガー・マーチ・クルックシャンク博士の自宅となります。彼は、イギリス軍への奉仕のために勲章を贈られ、そして世界初の細菌研究所を創設した微生物学者として有名です。
クルックシャンクの財産管理人の下、屋敷はかなり拡大されました。最初は邸宅に追加された東および西棟、それから、1892年のサウス・ロッジと門の建設、そしてその5年後にはノース・ロッジと厩舎。 湖とユリの池(現在のスイミング・プールの場所)もクルックシャンクの居住中に建設されたものです。
第二次世界大戦中、ネビル・ラスキー婦人がこの邸宅に住んでいました。 イースト・グリンステッドのクイーン・ビクトリア病院で働いていた形成外科医のパイオニア、アーチボルド・マッキンドー氏の患者、王立空軍士官たちの回復のために、彼女はその扉を開きました。
—L. ロン ハバード
1945年10月に、ヨーロッパ在住のアメリカ大使の妻マーガレット・ビドル夫人がセントヒルの土地を購入しました。 たった2年の所有期間に、彼女は、大邸宅の30の部屋の多くの素晴らしい改善を行い、このうち最も重要な1つは、配管の近代化でした。 しかし、ビドル夫人が何よりも記憶に残るのは、邸宅の舞踏室のために依頼した、ウィンストン・チャーチルの甥、芸術家ジョン・スペンサー・チャーチルによる風変わりな壁画のためです。
セントヒルは、1940年代後半、インド、ジャイプルのマハラジャの家となりました。 マハラジャは所有していた10年の間に、素晴らしいインドとヨーロッパの多くのアンティーク調度品を住居に付け加えました。
L. ロン ハバードは1959年3月に、セントヒル荘と周囲の243,000平方メートルを手にしました。 セントヒル荘は1967年まで、ハバード氏の自宅、そしてScientology宗教の国際本拠地として使われていました。
L. ロン ハバード生誕百周年(1911年–2011年)を記念して、セントヒル荘は、イギリスの一流保存設計企業によって緻密な改装と復元が行われました。
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